sea_horseの日記

日々の記録をおもむくままに  

伊藤若沖、藤田 嗣治

以下おもにWikipediaより
伊藤 若冲(いとう じゃくちゅう、 正徳6年2月8日(1716年3月1日) - 寛政12年9月10日(1800年10月27日))は、近世日本の画家。青物問屋「枡屋」(通称「枡源(ますげん)」)の長男として誕生。23歳のとき、父・源左衛門死去に伴い、4代目枡屋(伊藤)源左衛門襲名。商売には熱心でなく、芸事もせず、酒も嗜まず、生涯、妻も娶らなかった。齢40となった宝暦5年(1755年)に家督を3歳下の弟・白歳(宋巌)に譲り、名も「茂右衛門」と改め、はやばやと隠居。隠居後の若冲は作画三昧の日々を送っていたというが、明和8年(1771年)には枡屋があった中魚町の隣にある帯屋町の町年寄を勤めていたという記録もある。商売敵の五条通の青物問屋が錦市場を閉鎖に追い込もうと謀り、若冲に帯屋町だけは助けるから市場は諦めろと取り引きを持ちかけるが、若冲は拒否、市場存続のために奔走、取引先農民に掛け合い市場存続の嘆願運動を起こさせ、京都町奉行等の役所と交渉を重ね、3年後の安永3年(1774年)8月29日、年に銀35枚の冥加金を納める条件でついに市場は公認された。
若冲の墓碑銘に狩野派に学んだとある、狩野派の画法に通じた後、その画法を捨て、宋元画(特に濃彩の花鳥画)に学び、模写に励んだ。さらに、模写に飽いた若冲はその画法をも捨て、実物写生に移行したと伝える。濃彩の花鳥画、特に鶏の絵を得意とした。美しい色彩と綿密な描写を特徴とするが、写生画とは言い難い、若冲独特の感覚で捉えられた色彩・形態が「写生された物」を通して展開されている。

藤田 嗣治(ふじた つぐはる、Léonard FoujitaまたはFujita, 1886年11月27日 – 1968年1月29日)は東京出身の画家・彫刻家。フランスにおいて最も有名な日本人画家である。猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れた。
子供の頃から絵を描き始め、1900年に高等師範学校附属小学校(筑波大附属小)卒業。1905年に東京高等師範学校附属中学校(筑波大附属中高)を卒業1905年に東京美術学校(現在の東京芸術大)西洋画科に入学。当時の日本画壇はフランス留学から帰国した黒田清輝らのグループにより改革の真っ最中で、いわゆる印象派や光にあふれた写実主義がもてはやされており、表面的な技法ばかりの授業に失望し、それ以外の部分で精力的に活動:観劇、旅行、同級生らと吉原通い。
この頃女学校の美術教師であった鴇田登美子と出会い1912年に結婚。フランス行きを決意した藤田が妻を残し単身パリへ向かい、最初の結婚は1年余りで破綻。
1913年(大正2年)に渡仏しパリのモンパルナスに居を構えた。新興地で家賃の安さで芸術家、特に画家が多く住んでおり、藤田は隣の部屋アメデオ・モディリアーニやシャイム・スーティンらと知り合う。また彼らを通じて、後のエコール・ド・パリのジュール・パスキン、パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、アンリ・ルソー、モイズ・キスリングらと交友を結びだす。
パリでは既にキュビズムやシュールレアリズム、素朴派など、新しい20世紀絵画が登場しており藤田は大きな衝撃を受け絵画の自由さ、奔放さに魅せられ今までの作風を全て放棄することを決意。一次大戦終末期1917年3月にカフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエ(Fernande Barrey)と二度目の結婚。彼女の助けもあり絵が売れ始め個展を開くようになった。フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚、藤田自身が「お雪」と名づけたフランス人女性リュシー・バドゥと結婚。リュシーは教養のある美しい女性だったが酒癖が悪く、再び不倫の末に離婚。1931年に新しい愛人マドレーヌを連れて個展開催のため南北アメリカへに向かった。個展は大きな賞賛で迎えられ、ブエノスアイレスでは6万人が個展に行き、1万人がサインのために列に並んだという。2年後日本に帰国、1935年に25才年下の君代(1911年-2009年)と出会い、一目惚れし翌年5度目の結婚、終生連れ添った。1938年からは1年間小磯良平らとともに従軍画家として中国に渡り、1939年に日本に帰国。その後パリへ戻ったが、第二次世界大戦が勃発し、翌年ドイツに占領される直前パリを離れ再度日本に帰国。
帰国後は戦争画製作を手がけ、『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』『アッツ島玉砕』などの作品を書いたが、敗戦後の1949年この戦争協力による批判に嫌気が差して日本を去った。
傷心の藤田がフランスに戻った時には、すでに多くの親友の画家たちがこの世を去るか亡命しており、マスコミからも「亡霊」呼ばわりされるという有様だった。その中で再会を果たしたピカソとの交友は晩年まで続いた。
1955年にフランス国籍取得(その後日本国籍を抹消)、1957年フランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られ、1959年にはカトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとなった。1968年1月29日にスイスのチューリヒにおいてガンのため死去した。遺体はパリの郊外、ヴィリエ・ル・バクル(Villiers-le-Bacle)に葬られた。日本から勲一等瑞宝章を没後追贈された。
最後を見取った君代夫人はパリ郊外の旧宅をメゾン・アトリエ・フジタとして開館するのに尽力し、近年刊行の個人画集・展覧会図録等の監修もしている。40年以上経て2009年4月2日に東京で、98歳にて没。遺言により遺骨は夫嗣治が造営に関わったランスのフジタ礼拝堂に埋葬された。

2人とも画壇にはかかわらず、絵を描くことをミッションとして生活した。絵画おたくというと失礼だが。遊ばず絵に没頭した天才たちだ。配偶者やまわりのものは不満だったかもしれないが